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1967年のオールスターゲーム (日本プロ野球) == 概要 == 前年、2年連続しての日本一を達成した読売ジャイアンツ(巨人)の川上哲治監督が全セ(オールセントラル・リーグ)を率い、リーグ3連覇を達成した南海ホークスの鶴岡一人監督が全パ(オールパシフィック・リーグ)を率いた。 第1戦、昭和40年代を通して「オールスター男」「お祭り男」と呼ばれた全パの若き主砲・土井正博(近鉄)が2本塁打6打点の大暴れで初のMVPに選ばれた。第2戦も同時代の全パの黄金時代長池徳二(阪急)が先制打を打ちMVPに選ばれた。第3戦、それまで10回出場しながら一度も本塁打を打ったことのない野村克也(全パ・南海)の球宴初本塁打で、全パが3連勝した。 なお、本来第3戦の主管球団となるはずの近鉄は開催当時日生球場を本拠にしていたが、収容人員が2万人強と規定を満たしていなかったため、南海の本拠地・大阪球場で振り替え、開催権も南海に譲渡して開催した(1959年、1973年、1979年も同様)。 阪神のルーキーだった江夏豊を全セ・川上監督は3連投させた。この酷使と言うべき起用に対して怒った阪神・藤本定義監督は、藤本は川上を恫喝した〔『【7月27日】1967年(昭42) 藤本定義監督激怒!「テツの野郎、江夏をつぶす気か!」 』(このページは3戦目の会場を「西宮球場」としている)〕。藤本は、巨人で、川上が1938年に巨人に入団した時の監督だった。 この年出場の東映フライヤーズの選手は前半終了時と違うビジターユニフォームを着ていた。これはオールスター終了後ビジターユニフォームのみフルモデルチェンジして使用することとなり発表の意味合いを兼ねていた。そのユニフォームは1967年の東映フライヤーズのユニフォームを参照されたい。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「1967年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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